皆さん、こんにちは。 ドクタータイムシェアです!
私、ドクターは以前会社の出張で色々な国に行きました。
多くの方が憧れるイタリアのベニスも何度か訪れました。 ベニス近郊のパドバ市に技術系子会社があり、分担して製品開発をしていたので頻繁に打ち合わせが必要だったのです。
仕事で行ったとは言え仕事が早く終わればその午後に、或いは週を跨ぐ出張の際の土日などには同僚と連れだってゴンドラが運河を行き交うベニスで観光を楽しむこともできました。
ベニスは素晴らしいところですよ。 いずれベニスのお話を書きましょう。
本日のお話は入社5年目程度の頃、1986年に所属する会社の事業ドメインである眼科医療の代表的国際学会に参加するためにローマを初めて訪れた時のお話です。
1986年というと、2021年の今日から遡ること35年前になりますが、当時はまだ米ソ冷戦(※1)の時代で西側諸国(※2)の旅客機はソ連上空を飛ぶことが出来ませんでした。
(1983年に大韓航空007便の航路がずれてソ連領空に侵入し、ソ連戦闘機に撃墜されて269名が命を落とすという痛ましい事件も起きています)
このため当時の欧州路線はソ連領空を迂回して北極圏上空を飛ぶ北回り路線かアジアや中東を経由して長時間を要する南回り路線かの選択となっていて、私達は当時主流にあった北周り路線のJAL便に乗って乗り継ぎ地であるフランスパリ国際空港に向かいました。
欧州北周り路線の最大の特徴は、航空券は「東京–パリ」なのに、日本(東京)を出てパリに向かう途中で航空券に記載の無いアラスカのアンカレッジ空港に降りることです。
乗客は大型荷物は機内に預けたまま、大事な手荷物だけ持って一旦搭乗機を降りて待合ゲートで大地を踏みしめます。
アンカレッジ国際空港では、座り続けで固まった身体を思い切り伸ばすことができて、うどんやカレーの日本食まで頂けて、日本から遥か遠くの欧州を目指す日本人乗客にとってオアシスのような中継地でした。
但し、アンカレッジへの着陸はあくまでも給油のための一時駐機に過ぎないため、給油が終われば乗客は再び待合ゲートから機内の元の座席に乗り込み、そこから更に欧州に向けて飛び立つのです。
このフライト、東京・成田国際空港を出てからパリ・シャルル・ド・ゴール国際空港に到着するまでのトータル所要時間はザックリ17時間程度掛かり、若い身体に対してさえもこの移動は一大事業でした。
それだけに、その遠大な移動時間の途中で一旦アンカレッジ空港に降りて地面の上で足腰を伸ばし、日本人向けの免税店で買い物をしたりうどんやカレーライスを食べたりしたことは格別の思い出です。
しかしながら、1990年辺りからB747など航空機の大型化が進み航続距離が伸びたのと、時を同じくして1991年にソ連邦が消滅して米ソ対立構造が崩れたこともあって、日本から欧州まで一気に飛ぶ直行便が登場して北周り航路も南回り航路も衰退していき、いつしか消滅しました。
この欧州向け北回り航路以外にも、ドクターが一度メキシコ航空で、レディが一度ベトナム航空で、航空券上は直行便であるにも拘わらず「航空券に記載の無い第三の空港に着陸してから再度出発」という不思議な体験をしていますので、これらの詳細を思い出すことがあればまたお話したいと思います。
※1 米ソ冷戦・・・第二次世界大戦後、相対立するイデオロギーのアメリカ合衆国、ソビエト連邦の二大国が、核戦力を背景に世界的規模で対決し、ときには熱い戦争Hot Warにまで発展した国際政治上の現象。(コトバンクより引用)
※2 西側諸国・・・東西冷戦時代のヨーロッパで、ソ連およびそれに同調した東ヨーロッパ諸国に対して、西ヨーロッパの諸国のこと。また、米国を含む資本主義体制の諸国。(コトバンクより引用)
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